Soul Writings

人を理解するということは判断を手放すことだった

最近、ようやく気づいたことがある。
本当の意味で相手の立場に立つということは、簡単に人をジャッジできなくなることなんだ、と。

「相手の立場になってものを考えなさい」
幼い頃、母からこう言われ、母の背中を見て育って来たから、少なくとも自分は「誰かの立場で物事を考えらる人間だ」と思って生きてきた。

でも実際は、そうではなかった。
私はこれまで、誰かや何かをものすごくジャッジしていた。

行為としての「悪」は絶対に肯定できない

殺人、暴力、虐待、人を傷つける行為。
これらは どんな理由があっても悪でしかない

私は、それを肯定することは絶対にできない。
もし目の前にそんな行為をする人間がいたら、極端な話、自分が神だったら命を奪うレベルでありえない行為だと思っている。

これは今も、これからも変わらない。

それでも世界は「単純な善悪」だけではなかった

でも一方で、こんなことも考えるようになった。

例えば、自分の命を守るために、やむを得ず人を殺してしまう状況。
追い詰められ、逃げ場がなく、他に選択肢がなかった場合。

あるいは、幼少期に虐待されて育った人が、大人になって同じことを繰り返してしまうケース。

私はそれを「理解できる」とは思わない。「許せる」とも思わない。

でも、なぜそうなったのかを考え始めたとき、物事は急に白黒では切れなくなった。

人は自分の育った環境から逃げられないことがある

人は、生まれる環境を選べない。
親も、家庭も、与えられる愛の形も。

誰かを傷つける人の中には、「そうする以外に、自分を表現する方法を知らなかった人」もいる。

愛され方を知らないまま大人になり、怒りや恐怖や不安を、歪んだ形でしか外に出せなかった人もいる。

もちろん、それで人を傷つけていい理由にはならない。
でも、そこに “背景”がある という事実は無視できない。

ジャッジは理解の限界を表している

私が気づいたのはここだった。

人を簡単に裁いているとき、それは「正しさ」ではなく、自分の視野がそこまでしか届いていないというサインだと。

見えているものだけを切り取って判断すると、心の視野はどんどん狭くなる。

逆に、「この人は、どんな人生を歩いてきたんだろう」そう想像し始めた瞬間ジャッジは自然と止まる。

本当の意味で相手の立場に立つということ

それは、味方になることでも行為を許すことでもない。

判断を一度手放し、自分には見えない“背景”があると認めること。

それだけのことなのに、それができる人は、実はとても少ない。

でも私は、「人を理解したい」と本気で思うなら、そこから逃げちゃいけない気がしている。

人間は私たちが想像しているよりずっと複雑で、脆くて、環境に左右される存在なんだということ。

人を理解するとは、判断を急がず、その人の歩いてきた道を想像することなんだと。

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