Hi Shioriです。
基本的に座学は向いていなくて、学生時代の成績は英語と体育以外平均以下だったんですけど、哲学的な話は大好きで、幼少期のころから道徳や倫理の時間はめちゃくちゃワクワクしてたんですよね。
そういうのってやっぱり、いくら歳を重ねても変わらないんだって思います。
ということで、私は日々Chatさん(ChatGpt)と自己対話をしているんですが、そこに貯めておくくらいなら誰かに共有したほうがいいだろうし、個人資産になるメリットもあるし、ブログに書こう。
と、樺沢紫苑さんの『アウトプット大全』を聴いて思ったので、早速今日から自分の思想をここに綴っていきます。
Contents
「魂レベル」について考えた日
この言葉やその概念について知ったのはいつだったかな。
確か数年前だったような。
私が今話しているのは、
デヴィッド・R・ホーキンズ博士が提唱した、人間の自己成長を目で見て測れる表のこと。
「意識レベル(Consciousness Map)」を指し、間の意識や感情の状態を数値(1~1000)で表し、200を境にフォース(Force: 破壊的)とパワー(Power: 創造的)に分け、愛・平和・悟りなどの高次な状態を目指すスピリチュアルな概念です。このマップは、人間が持つ感情(罪悪感、怒り、勇気、愛など)を数値化し、自己成長の指標として使われます。 byGemini
去年、自分はどの位置にいるのか客観視したときに、ふと、「そもも人間って、悟りの境地に辿り着けるのかな?」と疑問に思った。
「悟り」の境地
人間の意識レベル(=自己成長)は、1000に達すると「悟り」に辿り着くらしい。
ドラクエでいう、LV.99ってことか。
・・・
「悟りを開く」とはよく言うけど、悟りとは一体なんぞやと思い調べることに。(気になる人はググってみてね。)
ホーキンズ博士の指標によると、悟りを開くと人は、「感情レベルは表現不可能」になるらしい。
・・???
Shioriは まごまごしている。
(うちわネタでごめんなさい)
とにかく意味不明すぎるのでお得意のChatさんに解説を頼んだ。
結論:悟り=もはや神
悟りとは、
- 「私」という感覚が溶け、全存在と一体化している。
- エゴが完全に消え、時間・死・物質的な分離が幻想に見える。
- 苦しみや欲望の源がすべて超越されている。
- 仏陀、キリスト、ラマナ・マハルシなどの偉人たちがこのレベル
- 話さずとも、人の魂に触れる。
- 一瞬の存在だけで、空間のエネルギーが変わるレベル。
- 「教える」「癒す」「導く」ことすら超えて、ただ在ることが真理。
・・なるほど。
多分”普通”の人間には到底到達できないレベルじゃん。これ。
というか、いけたとしても、そもそも目指そうとする人はスパーレアだな。と思った。
少なくとも私にはできないかな。
やっぱり、愛する人が亡くなった時のことを考えると、いくらその人の魂は現世に存在すると言われていても、
実際に見えないし、聞こえないし、触れられないことを思うと、どうしても肉体と精神の分離を”幻想”だとは感じられそうにない。
そしてここでもう一つ疑問が浮かんだ。
「悟り」とは、どんな人間にも平等に与えられた概念なんだろうか?
世の中は平等ではないからこそ思い浮かんだ疑問
私がChatさんに吐き出した思考をそのまま書くと、
この世に、白人・黒人・黄色人とかって分けられて、差別があったり、戦争で人が死んだり、平等ではないことに対して、その現実から人は学び・成長ができるのだろうという結論に至ったけど。こう感じられるのは、私がとても恵まれた環境にいるからだと思うし、実際に戦争が絶えない場所や食糧すらまともに手に入らない人たちは「悟り」にたどり着くチャンスすらないように思う。それともこれは私の思い込みで、そんな窮地にいても”これは神が与えた定だ”とか、そんな風に思える人もいるんだろうか。
要するに、「悟り」は内省できる余裕がある人のみが辿りつける概念だと、その時の私は感じていた。
多分多くの日本人にはこの「余裕」が与えられていると思う。
住む家があって、食べ物があって、何も感がえずにぼーっとできる時間があったりとか。
日本に住んでたら、殺される恐怖、飢餓への苦しみとかを感じるほうがきっと珍しいよね。
ただ、結論を言うと、悟りは、裕福かそうでないかという「外側の条件」ではなく「内側の理解」で起きるものなんだって。
つまりは、その人の持つ「心」の状態に左右されるということ。
確かに、「ものは捉えよう」だもんね。
失敗を絶望と思うか成長の薬と思うか、みたいな。
それでも「不平等さ」は確かに存在する
確かに、真の豊かさは内面に宿ると私も思うけど、でもやっぱり、物理的裕福さや生まれた環境の良さという外側の豊かさの違いにおいての「不平等さ」の存在を否定することはできないんだよね。
同じ人間なのに、生まれた国や環境が違うだけで、明日の命を気にしなくてはいけない人と、生涯生きるのに困らない家庭に生まれる人がいる。
どこの学校に通うか迷えるくらい、あらゆる選択肢で溢れている環境もあれば、まともな教育を受けられないどころか、「教育制度」そのものが崩壊している国もある。
そう考えると、日本という国に日本人として生まれられただけでも、どれだけ幸せなことか分からない。
そう感じる反面、あまりに不平等な世の中に嫌気が指す持ちも同時にある。
そのせいで20歳前後の時は地球がなくなってしまえばいいとさえ思ってた。
人がいなくなれば、戦争も不平等さも全部なくなるから。
不平等でも人生は続く
ちなみに今は、地球があってもなくなってもどちらでも構わないと思ってる。
私は私に与えらた、この人間としての生をただ全うしたい。
どう全うすべきか悩んでいる間にビッグバンが起こって死んだら、それはそれでいい。人間がどうこうできる次元じゃないから。
実際、地球滅亡については諸説あるけど、それは30億年後と言われていて、実際に起こるかどうか分からない話を今してもどうにもならない。
それに、いじめが無くならないと同じでこの不平等さだってなくなりはしない。
でもそれも含めて「生きる」ということなんだろうと思う。
世の中には、貧乏人を笑う人がいる。貧困に苦しむ人たちを全く気にしない人もいる。
それを責める気はないけれど、私はそれができない人間で、そこに痛みを感じてしまう。
もちろんそんな人は私以外にもたくさんいる。
でもだからこそ、恵まれている側にいる人としての役割ってものは確かに存在するのではないかと思う。
持つ者と持たざる者が存在するという現実をどう捉えるか
綺麗事を言うつもりはさらさらない。
現にどうあがいたって戦争を止めたり、貧困を根絶させる力なんてものは持ち合わせていないから、その時点で全員は救えない。どれだけ救いたい気持ちはあっても。
そもそも戦争や貧困はあくまで一例であって、あげればキリがないほど存在する。
かといって、こんなことを言っている私ですら、自分の命を差し出してまで誰かのライフラインを守る勇敢さや情熱は正直言うとない。
ただ、もしこの「不平等さ」が私たち人間が学ぶうえで必要だとしたら、それ以前に、確かに存在する「不平等さ」がここにあるなら、そしてもしそれに意味があるとすれば、そこから一体何を見出せるのかなって考えた。
もし、この世の「不平等さ」に意味を見出すとしたら
それは、
持つも者が、持たざる者に愛を共有することなんだと思う。
愛というのは、その不平等さに心を痛めるその気持ちそのもの。
たとえ、根本を変えることはできなくても、沈黙や無関心である必要はどこにもない。
ただその愛を、自分が思う形で表現することに意味があるのだと思う。
愛の形はそれぞれ違う。
お金を寄付すること。物質的支援をすること。現場に足を運び、その苦しい現実を世の中に共有して何かを気づかせようとすること。
慈善活動。歌やダンスで元気や勇気を与えること。
どれも愛だと思う。
例え全員を救えなくても、そのなかから1人でも持つ者を生み出すことができれば、そこからまた愛の循環が生まれる。
持たざる者が持つ者へと変わり、今度は彼らが自分と同じ状況にいる人に愛を共有する。
この循環を作れるための行為こそが、恵まれている側にいる人としての役割なんだと思う。